看病
風邪をひいた、と言ったのは相手の機嫌を損ねたくなかったからだ。ぼんやりするなと任官したばかりの頃さんざん怒鳴られた生まれつきの顔は、そんなつもりはないのに知人友人たちをがっかりさせることもある。だからルースターはちゃんと説明をする。俺がぼーっとして見えるのは熱があるからであって、毎日ビデオ通話かけてくんのクソめんどくせえなって顔じゃないんだぜコレ。
「てことは多少めんどくせえなとは思ってんな」
「そりゃ多少は」
知人か友人かは謎だが最近何度かデートした相手ことハングマンは、ふふん、となぜか得意げに笑った(人に面倒がられるとこいつは喜ぶ、マジで理解不能だ)。
「喉か? 鼻か? 熱は何℃ある? なんで体温計持ってねえんだよ何年人間やってんだ。喉なら俺のスパイスティーのレシピがマジで効く。いいかシナモンを一さじとカルダモンを」
「へーやってみるわ」
「100パー嘘だろ聞いてすらいねえ。つうか感謝してメモとれよマジで貴重なレシピだからなこれ」
「ヘーキヘーキ俺記憶力いいから」
「ニワトリなのに?」
という会話をしたことは覚えていた。だって昨夜のことだ。通話を切り上げたらもう限界で、ベッドにもぐりこんで寝た。高熱で見る支離滅裂な夢の狭間に現実的なことをいろいろ考えた。水のボトルが空だ取りに行かなきゃとか。治すにはなにか作って食わなきゃとか。冷蔵庫なに入ってたかなとか。自分でやらなきゃ誰もやってはくれないし。ああいいかげんに起きねえと。
「寝てろ」
だからだめなんだって。はっと目を開けた。そこには西海岸にいるはずの。
「おまえ」
「飲め」
乾いた喉に温かい液体が流れる。沁みる。少し体を起こして最後は自分で飲み干した。
「喉ちょっと楽か」
「そんな気がする」
「よし」
にんまり上がる口角。ほらみろ俺は正しいんだという言葉に命を吹き込んだような人間。夢じゃない本物のハングマンだ。
キッチンからうまそうな匂いがする。ドアの向こうに見えるリビングはきれいに片付けられている。たった今飲んだお茶は絶対この家に存在しない味がしたから買い物もしてるはずだ。いったいいつ着いたんだ。だって昨日の今日だぞ。あれからすぐ飛び出して来たってことか? アメリカ大陸を横断して? 自分が風邪をひいたと言ったから?
ルースターは唾を飲んだ(のはまずかった、喉が痛い)。神妙かつ真摯に言う。
「サンキュー、わりいなわざわざ来てもらって。忙しかっただろ」
「その顔やめろ」
「どの」
「お前が内心うわっ……と思った上官にとりあえずイエス・サーって言う時用のやつ」
「俺それ用の顔あんのか。なんで知ってんだよ」
「そうだ俺はなんでも知ってる。お前が喜んでねえことだってな。この程度のことでこの距離飛んでくんのかよマジかって思ってるだろお前」
「正直かなり引いてる。自分の母親にやられても怖いと思うぜこれ」
「そりゃお前んとこは怖いだろあの世から来られたら」
「クソ野郎」
ハングマンが笑った。クソすぎる。ルースターも笑った。
のびてきた両手が頭をひきよせて、熱を測るように額を合わせた。指が髪を撫でる。気持ちが良くて目を閉じる。
「俺は何でも120%の男なんだ。仕事もプライベートもボーイフレンドの世話もな。お前がまだついてこられないのも無理はねえ。俺からのアドバイスはひとつだ。慣れろ」
ボーイフレンド。あんな何回かデートしただけで。とルースターは言わなかった。たしかにハングマンはなにもかもやりすぎの人間だった。速すぎる飛行。無礼すぎる態度。手入れが良すぎて嫌味なルックス。デートしたって変わらないと思っていた。知らなかった。お前が人を好きになりすぎるやつだって。
「なあ俺に慣れろよ。ルースター」
溢れる愛を祈るように差し出す。お前がこんな人間だなんて思わなかった。
「熱上がりそう。逆効果じゃねえ?」
「寝ろ!」
笑い声と一緒にキスが降ってきた。こんなの慣れるには熱すぎる。だからお前はやりすぎなんだよ。
彼氏を紹介された
店の入口から姿を現すなりやはり男は脇目もふらずやってきた。どんな人混みでもこちらを見つけては嬉々として"挨拶"にくる。目ざとい。そして面倒くさい。
「ようルースター! いつもどおりジョークみてえな飲み方だな。俺がまともな大人の飲むモンを奢ってやろうか?」
「ほっとけよ。そっちもご機嫌だないつもどおり」
ルースターは軽くいなして甘いカクテルを飲んだ。バカにされるからビールにしようというたぐいの殊勝さはルースターにはない(長い経験上、バカにしてくるやつは何をしてもしてくるからだ、こいつのように)。
馴染みの顔で賑わう金曜の夜のハードデックは解放感に満ちている。その中でもイヤというほど見知った顔ことハングマンは、ルースターの視界を独占するように立ちふさがると、にんまりといつもの笑みを浮かべた。
「おかげさまで。お前とちがって俺にはご機嫌じゃねえ理由がないからな。なあどんな気分だ? 今週もずっと俺に勝てねえのは?」
きた。ルースターは首の後ろを撫でた。クソ野郎、と口の中だけで呟く。
「訓練だろ。いちいち勝ち負けとか言ってるのマジでお前だけだぞ。お前さ、俺が味方でチームメイトだってわかってるか?」
「敵に勝つなんてそれが仕事だろ。味方に勝つから楽しいんだよ。最高のチームの中で俺が最高だってことが証明できる」
「だったら勝手にやってろよ。俺はチームが最高なら誰が一番でもいい。なんでいちいち俺に言うんだよ?」
「さすが教官のお気に入りは言うことが違うぜ。褒められていい成績さえもらえりゃ満足か? なあ? 悔しくねえのかよ俺に追いつけないで」
どれだけ悔しくても追いつけないなんてお前が初めてじゃないし。とは口にせず、ルースターは肩をすくめた。
「お前だって教官に嫌われてはねえよ。その腕にそのクソみたいな頭と口がくっついてなきゃトップ、っていつも褒めてもらってんだろ。俺みたいにいい子にしていい評価もらえよ」
「俺のスタイルじゃない。評価ってのはもらうもんじゃねえ。掴むもんだ」
満更でもなさそうに笑う。なぜならハングマンはそれを本当に褒め言葉だと思う人間だからだ。すげえなこいつとルースターはひそかに感心した。アホみたいな自信だ。自分には何を食っても身につきそうにない。
……あるいは。もっと一緒にいたら少しは身につくのかもしれない。こいつと。そう思ったのは金曜日のせいかもしれないし、少しまわった酔いのせいだったかもしれない。そもそも俺達はとっくに友達だっておかしくない。こいつが毎回こちらを見るなりクソみたいな絡みをしてこなきゃ。だからもしかしたら、こっちがちょっと大人になって普通の友達みたいな付き合いをしてやれば、こいつだって歩み寄ってくるのかもしれない。
ルースターは息を吸った。明るく言う。
「そっちこそ一杯目くらい奢ってやるよ。大人だからビールでいいんだろ? いま俺の連れが取りに行ってるからさ」
手をあげてバーカウンターのほうに合図する。そこで酒を注文していた若い男が親しげに手を振り返した。
その視線の先を追ったハングマンが言った。
「見ない顔だな。どこの所属だ?」
ルースターは答えた。
「いや俺の彼氏」
「……」
「週末遊びに来てる。愛想よくしてくれ。ネイビーじゃないからお行儀悪い口でびっくりさせんなよ」
ばんと背中を叩く。まるで友達みたいに。緊張のせいかちょっと強すぎたかもしれないが。決して短くはない付き合いでこんな個人的な話をハングマンにしたことはなかった。いくらクソ野郎だってこちらが歩み寄ろうとしていることくらいわかるはずだ。そうしたらこいつだってまるで付き合いの長い悪友みたいに言うかもしれない。なんだブラッドショー、隅に置けねえな! じゃあ今夜はお前のみっともない昔話を彼氏に吹き込まなけりゃな。
だが返ってきたのは長い沈黙だった。
「――彼女」
「え?」
「前に連れてきた時は彼女だった」
ルースターはすっと目をすがめた。
「そりゃ前とは別人だから。何か問題でも?」
「いや」
「だろ」
足早にその場を離れる。酔いは霧散していた。
バーから戻ってきかけていた相手と途中で落ち合い、ちょっと外の空気吸おう、と耳打ちした。大丈夫だとは思うが念のためだ。ハングマンが(いくらクソ野郎だって!)そんな人間だとは思いたくないが、あの反応はちょっと変だった。ほら今だってそうだ。その場に立ち尽くしたまま、まるで信じられないものを見るようにこちらを凝視している。クソ野郎、と今度こそ口に出し、恋人の手を引いて店の外に出る。自分だけならともかく、せっかく来てくれたのに嫌な思いはさせたくない。
夜風は心地よく、砂浜の散歩とちょっとしたスキンシップ(PG-13だ、もちろん)は結果的に楽しかった。店の入口の石段に二人で座りこんで喋っていると、扉が開いた。振り返る。顔を出しているのはフェニックスだ。
「ブラッドショーここにいたの。中戻ってきなよ。今セレシンがさ」
「しっ。俺探してたら帰ったって言って」
「ていうか」
その返事をかき消すように店内でどっと歓声が上がった。金曜にしても盛り上がりすぎだ。フェニックスの肩越しに中を覗き込んだルースターは、目を丸くした。
「…………なにやってんのあいつ」
「バカでしょ? あいつあのテンションで客全員に酒奢ってんのバカだから。一番高いやつ。祝杯だって言ってるけどあいつなんかいいことあったっけ? あ、今シャンパンタワーしたいっつってペニーにねーよって言われてるわ。ねえせっかくだからバカの金で飲もうよタダ酒、ほら彼氏も一緒にさ」
「あ」
ブラッドリーは通知を見て思わず言った。
「どうした?」
キッチンからジェイクが顔を出した。手に色違いのマグカップを持っている。
ソファの上でそのうちひとつをサンキュと受け取って、画面をタップしながら言う。
「友達、つうか元カレからメッセ。こっち来てるからコーヒーでもどうかって。もしかしてお前も会ったことあるんじゃないか? ほら昔トップガンの頃にさ、たしかサンディエゴまで遊びに来たことある」
「いやまったく覚えてない」
「行っていいか?」
「なんで俺に聞く」
「聞くだろ一応。今カレに」
マグカップから一口飲む。好物のホットラム。とろりと唇に残った雫をぺろりと舐めとって、甘い、とジェイクが顔をしかめる。ブラッドリーは笑った。
「そりゃそうだろ。待てよ飲んでんだから」
「俺のスタイルじゃない。待てって言われて犬みてえに待つか」
「待てねえほうが犬だろ。返事は?」
「何の?」
「これ!」
「どこでも好きなとこ行けよ」
見せたスマホはあっさり押しのけられた。人がせっかく誠実な彼氏をやろうとしてんのにとぼやくとやり方が違うと文句を言われたので、しばらくマグカップとスマホを手放して、しっかりと誠実な彼氏の役目を果たしてやることにした。
……やっと二口めを飲んだホットラムはぬるくなっていた。グルグルと喉を鳴らしそうに満足げな男がまだ首元や顎になついてくるのを適当にいなしつつメッセージの返信を打っていたブラッドリーは、ふと手を止めた。
「思い出したんだけど、こいつ遊びに来た時さ」
「ん」
「お前テンションやばかったっていうかなんかすげえことになってなかったか祝杯だとか言って。関わるとめんどそうだから結局聞かなかったけどあれなんだったんだ?」
「ああ! その時か」
ジェイクがにんまりした。
「お前が彼氏も作るという事実が判明したからその祝杯」
は、と目を丸くする。それにかまわず相手はウキウキべらべらとしゃべりだす。
「しかも例えば二回り年上のどっかの大佐似のダディとかヤバそうなのでもないごくごく普通の。そりゃ祝うだろ盛大に。なにしろいくら俺が最高でもそもそもバッターボックスに立てないんじゃどうしようもないと思ってたでもやっぱり俺だな俺は何をやってもうまくいっちまう星の下に生まれてるんだ。マジで世界は俺の味方だと思ったぜあの時はやっぱり俺の日頃の行いが」
むぎゅ、と口を物理でふさいで(手でふさぐと後でうるさいのでもうちょっと柔らかいものでふさいだが)黙らせると、ブラッドリーは眉をひそめて言った。
「つまりお前あの頃もう俺が好きだったのか?」
「あたりまえだろ」
「聞いてねえんだけどまあいいわ。それよりお前さ、それが本当なら、好きなやつに彼氏紹介されてあんなにテンション上がるの変わってねえ?」
「なんで? 彼氏作るなら作らないよりチャンスがあるだろ」
「いや、もう相手がいるんだなとかって思うだろ普通。俺があいつに真剣でお前にはチャンスなかったって可能性も」
「……?」
「言語が理解できねえみたいな顔すんな。お前すごいなマジで。その自信なんかのチャリティに使えよ世界平和のために」
まあお前のそういうとこ俺は昔からイイと思ってたけど。とブラッドリーは言わなかった(これ以上自信をつけてやる必要が微塵もないからだ)。返信途中のメッセージをまじまじ見ながら、感心して言う。
「お前ってやきもち焼かないよな全然。やっぱ自信あるから?」
「自信じゃない。興味」
え、と聞き返す間もなくスマホを奪われ、鼻先を合わせるように視界を独占される。
「お前が他人をどう思うかなんてどうでもいい。俺は、お前が俺をどう思うかにしか興味がないんだ」
それでブラッドリーは昔を思い出した。他人の評価など屁とも思わない傲岸不遜なハングマンは、いつも自分のところにだけ脇目もふらずにやってきては執拗に聞きたがった。ようルースター今日の俺を見たか。ルースター俺の勝ちだぜ。なあ悔しくねえのかよ。なあどんな気持ちだ。なあどう思う。俺をどう思う。
目の前の鼻の頭にちゅっと音を立てる。
「ただ俺しか見えてないだけ?」
「ただお前しか見えてないだけ」
がぶ、とキスが返ってきた。
行方不明
カリフォルニアの太陽ももはや熱くはなかった。
「ブラッドショー! 嘘だろほんとにブラッドショーか?」
「ファンボーイ!」
空港のコンコースを出るなり迎えてくれたのは眩しい夏の日射しと懐かしい顔だった。思わず両手を広げて叫ぶと相手は爆笑した。
「ボーイって年かよ。すげえや確かにブラッドショーだな! お前以外もうそんなの誰も呼ばないぜ、タイムトラベラー」
目尻に浮かんだ涙を拭って言う。その肩に手を置いて、ルースターは、ごめん、と言った。
「ミッチェル大佐にはもう会えたのか?」
「ああ。昨日まで一緒だったよ」
「元気だったろ?」
「そうなんだよ! 明日死ぬようなこと言うから飛んできたのに。下手すりゃ俺より元気だぜあのジジイ」
窓の外を流れるサンディエゴの街に目を奪われながら言う。
運転席でファンボーイが笑った。
「それにしても有名人になったから大変だろ。行方不明の海軍飛行士、二十年ぶりの帰国! 今朝のモーニングショーでもやってたぜ。俺録画しちゃったよ」
「こっそり来られるもんならそうしたよ。でもパスポートもないし、しょうがなく領事館に行ったら騒ぎになっちゃってさ」
「そりゃ敵地で墜落する時にパスポートなんか持っていかねえか」
ルースターも笑った。そうだ。ジョークにするだけの時間は経った。
「おかげで皆、有名人に一目会おうと駆けつけてくれたよ。ルーベンなんか今ドバイに住んでるのに飛んできてんだから。会ったらお前がなんて言うか楽しみだなあ、石油王みたいになってるからあいつ」
――最後に会いたい人がいる。万が一これを見ていたら、どうか会いに来てくれないか。
きっかけは小さな地元メディアだった。独立記念日に合わせた、高齢の退役軍人のインタビュー。それがそこから一万km以上離れた異国の辺境の村の端末に届くにはたった数日(と数万人のシェア)しかかからなかった。ルースターが二十年来踏まなかったアメリカの地を踏んだのは、それから二週間後のことだ。
「ブラッドショー! このクソ野郎!」
店に入るなりフェニックスが叫んだ。
殴られるつもりで差し出した頬にキスされて、思わず二人でらしくもなくわんわん泣いた。ようやくハグを解いて、
「ごめん。でもフィーはさ、俺がいなくても」
「大丈夫だと思ったんでしょ」
知ってた、とフェニックスは鼻をすすった。
「……緊急脱出はしたけど高度が低すぎた。意識が戻ったらあの村にいたんだ。敵の俺を見つけて、介抱して、かくまってくれた。バレたら村中皆殺しにされるかもしれなかったのに」
仲間たちに囲まれてルースターは語った。大きな扇風機のまわる店内、ジュークボックスから流れてきそうな懐かしい音楽。あの頃のハードデックに少し似ている。
「そのうち体は治って、でももしあの国から出たら……二度と村に戻ってこられるとは思えなかった。俺はアメリカ人だし軍人だしあの頃は今と違ってビザなんか下りなかったから。命を助けてもらったから、俺も助けになりたかったんだ。長い戦争で大人が皆死んで村には子供ばっかりだった。ここで俺にできることがあるんじゃないかって、そう思ったんだよ」
「ミッチェル大佐は知ってた?」
そっと手を重ねてフェニックスが聞いた。
ルースターは首を振った。
「まさか。ダークスターで救助に来られたら困るだろ? あの人にも君にも、誰にも言ってないよ、フィー」
それはほんの数グラム分だけ嘘だった。本当は、マーヴェリックにだけ、送ったのだ。一枚の絵葉書。差出人もメッセージもない。それでもわかってくれるかもしれないと思った。彼ならきっと葉書の意味も、自分の選択も。
湿っぽい潮風が通りすぎてしまえば、店内は明るい笑い声で満たされた。あの頃の仲間達のほとんどは軍属を離れて久しく、仕事も住む場所もさまざまだ。近況報告にいちいち目を丸くしながらルースターは笑って言った。
「それにしても一番ジジイになったのは俺だろ? あっちの夏はとにかく日照りが強いから日焼けするしさ。ここなんか涼しいくらいだぜホント。それに、俺が面倒見た子供たち、もう大きくなって自分の子供もいて、あいつら皆俺のことボーボって呼ぶから……あ、ジジイって意味なんだけどさ……」
車で片道四時間もかかる空港に、古いSUVにぎゅうぎゅう詰めになって見送りにきてくれた皆のことを考えると、今すぐ飛んで帰りたくなった。こんなに長く村を離れたことはこの二十年来一度もない。
「で、いつまでこっちにいるの?」
「大佐の近くに住むのか?」
「いや? 明日の飛行機で帰るよ」
ええ、とブーイングが飛ぶ。どうどう、と手を振る。
「ジジイには子守りもあるしそんなに長く家を留守にはできねえの。それにもう目的は果たしたからさ。マーヴにも、皆にも会えたし……会いたい人には皆……」
ルースターは、すでに何度かしたように、店内を見回した。
なあ、とついにファンボーイを振り返る。
「来るはずなのってこれで全員か?」
「そうだよ? あ、いや。噂をすれば」
ファンボーイが入口のほうに手を上げる。昼下がりのバーレストランにひどく目立つカーキ姿の男。ルースターは息を飲んだ。
「やっとご登場か。お前に合わせてサンディエゴにしたのに一番遅れるなよ」
「隠居したお前らと違って俺は忙しいんだよ。昼間から飲んで夕方にはおねむか? 長くねえんじゃねえか」
口のきき方までまるで同じだ。その当たり前のことが信じられずルースターは凝視した。男が振り向いてにやりと笑う。「よう。ルースター」
はは、と喉から掠れた音が出た。
「変わんねえな。びっくりするわ。元気そうだな、ハングマン」
「お前はいかにもずっと死んでましたってナリだな。墓場から戻ってきた気分はどうだ?」
ルースターは大声で笑った。ハングマンだ。あまりにハングマンすぎて笑うしかない。
ハングマンの登場で、場はまた盛り上がったようだった。ハングマンは、あいかわらず無遠慮で、傲岸で、精力的な人間だった。遅刻の詫びだと無理やり酒を注いでまわれば迷惑な顔はされても誰もが活気づいた。鼻につく、だが伝播するような熱量。あの頃と同じ。
「スペシャル・フォースの隊長? あいつまだ飛んでるのか?」
「らしいぜ。大したもんだよな。ま、現役最長レコードは破れないだろうが」
ルースターは感嘆した。まるでマーヴェリックだ。そうだ。ハングマンは自分よりマーヴェリックに近い人間だった。昔からずっと。
「俺についてこられない奴は振り落とす。ノロマが一人いりゃ死ぬのは他の全員だ。自分のせいで他人を死なせるよりそのほうが幸せだろ?」
「そんなこと言ってるリーダーに誰がついていくんだよ。お前さ、置いていかれるほうが何も感じないと思ってるのか?」
何度繰り返したかわからない口論。自分達は何もかもがまるで合わなかった。二人でチームを率いるようになってもそれは変わらなかった。誰にも追いつけないほど先へ先へ飛びたがるハングマンと、いつも最後尾から誰も置いていかれないように追いかけていた自分。あの最後の任務でも。
自分がいなくなって、どうしているんだろう、と考えなかったといえば嘘だった。フェニックスを信じるようには信じていなかった。マーヴェリックを信じるようには信じられなかった。心配だった。本当は少し。そう言えば馬鹿にして笑っただろうが器用なやつではなかったから。だから。
「乾杯だ。ノロマのルースターに! 燃料どころか寿命が尽きる前に帰ってこられたのが奇跡だぜ」
どっと陽気な笑い声。あの頃のままの言葉、あの頃のままの笑顔。まるで何も起こらなかったかのように。
やはりこの男の人生に自分は何の影響もなかったんだ。ルースターはそう思った。
遠方に帰る者も多いので夕方には散会になった。
別れの挨拶とハグに忙しくしていたルースターは、店を出る人波の狭間に目当ての人物を見つけて、呼び止めた。
「コヨーテ」
びっくりしたように振り返る。
「ああ。俺か」
「あんまり話せなかったからさ。お前なんだか静かだっただろ。ちゃんと楽しめたか?」
「もちろん。俺はお前に会えてよかったよ。当然だろ」
「そうか? 幽霊でも見たような顔してたぜ、ずっと」
冗談ぽく言う。相手は笑わなかった。昔から人に調子を合わせないやつだった(だから付き合えたのだクソ野郎でも)。たしか今は旅客機の機長をしていると聞いた。
「あいつな」
そちらに視線すらやらずに、コヨーテは言った。
「お前が帰ってこなかったあの任務の後、誰が何を言っても一度も休まなかった。あの国への派兵部隊にあいつ何回志願したと思う? ほとんど皆勤賞だよ。そんなやつ米軍中探したって他にいやしない」
「……へえ。やっぱりやる気あるんだな、あいつ。だからあんなに出世したんだろ?」
「出世?」
コヨーテが唇を歪めた。
「俺達の年で第一線の戦闘機乗りなんて無理だよ。あいつはマーヴェリックじゃない。スペシャル・フォースなんて聞こえのいい厄介払いだ。退役もしない、司令部にも入らないあいつを、誰もどうしていいかわからないんだよ」
「……」
「俺はずっとあいつにうちのエアラインに来てほしかったんだ。キャリアチェンジには遅いがまだ手遅れじゃない。あいつもさすがにここ数年は諦めて、首を縦に振るかと思った。そう思ってたところだったんだ」
深く息を吐く。
ルースターは思わず言った。
「でも……あいつ大丈夫だったんだろ? だから元気なんだろあんなに。そりゃあの任務のことは、いくらあいつでも多少は……。でも立ち直ったんだろ? だって見ろよあいつ、俺なんかより全然若々しいしさ、ちっとも変わらないじゃ……」
「そうだな。そう思ってたんだ俺も。皆も。でも」
コヨーテは言い淀んだ。
「お前の言うとおりだよ。人は立ち直るもんだ。でも、もし諦めることさえしなかったら、どうやって立ち直るっていうんだ?」
「コヨーテ」
「懐かしいな、その呼び方。お前に会えて本当に嬉しかった。気をつけて帰れよ、ルースター」
最後の一台はファンボーイだった。ホテルまで送ると言うのを海辺を歩きたいからと手を振って見送ると、駐車場はがらんとした。強い西日に目を細めて振り返れば、車でも待っているのか、まだ一人だけそこに立っている。
「おまえ」
ルースターは驚いた。ハングマンだ。黙って突っ立っているなんてこいつらしくもない。
「なあ……」
ハングマン、と呼ぼうとした声は喉でひっかかった。夕暮れの駐車場には他に誰もいない。誰もいない時、自分が呼んでいたのはたしかその名ではなかった。迷った末、そのまま続ける。
「俺さ、お前に言いたかったことがあるんだ。あの時。あの任務の時。俺が落ちたのは、お前のせいじゃないよ。お前の言うとおり俺がノロマだったんだ。お前は正しい判断をした。それだけずっと、お前に言いたいと思ってたんだ」
返事はなかった。
まるでルースターの背後の太陽に目が眩んだように、どこか呆然と、ただこちらを見ている。酔ったんだろうか。大丈夫か、と伸ばしかけた手がひったくられた。
「う」
わ、という声は出なかった。熱い感触。掴まれた首の痛み。息ができない。
「ぷはっ!」
やっと喘ぐ。ほんの1センチ離れた唇が言った。
「こうしたら目が覚めるんじゃないかと思ってた。いつもそうだったから」
顔は近すぎて見えなかった。痛いほど額と額を合わせる。まるで痛くなければ信じられないように。
「でも違う。今度こそ違う。本当なんだ。お前が帰ってきたんだ。だから俺は言ったんだ。やっぱり俺が正しかった。俺が」
「ジェイ――」
今度はただ押しつけるだけのキスではなかった。濡れた舌が、乾ききった唇をあっけなく溶かして崩した。こんなふうに人に触れたのがいつだったか思い出せない。砂漠でほんの一口水を与えられた人のように、ルースターはいつしか自分から貪っていた。混じる息の狭間に陶然と囁く。はやく帰ってもっとしような。ルースターはほとんどわなないた。
「だ、めだろ。俺、明日帰るし――」
「どうして。今日でいいだろ」
閉じかけていた目を見開く。目の前の男は笑って言った。
「俺達の家だよ。一緒に暮らそうって言ってただろ。お前の部屋にあったものも全部俺のところにあるよ。お前の服も、靴も、レコードも。帰ってくりゃすぐ暮らせる。帰ってこいよ」
目眩がした。
他愛ないはずのカリフォルニアの太陽がもはや耐えがたかった。斜陽に熱され、蜃気楼のように立ち上る記憶。
「あれは……あのとき……俺はイエスとは言ってない。そう言ってたのはお前だけだ。俺はまだ……」
「考える必要なんてないだろ? 気に入らなきゃ出ていったっていい。一緒に人生を始めるんだ。やってみなきゃわからねえだろ」
「それだよ。お前いつもそうやって……俺、ずっと言おうと思ってたんだ、お前が待てないならもう続けられないって――」
一体これは何だ?
時間が音をたてて巻き戻るような錯覚にぐらりと平衡を失った。昨日の続きのような口論。ファンボーイの言葉が耳に甦った。よう、タイムトラベラー。
俺が? 冗談じゃない。こいつだ。まるであれから一秒も進んでないみたいに――
手が、そこにいることを確かめるように頭の輪郭を、首を、頬をなぞった。厳しい太陽に灼け年輪の刻まれたルースターの手と比べるとそれは、蒼白で、すべらかだった。まるで何も起こらなかったかのように。あの日から、人生の苦難も、歓喜も、何ひとつその手で触れなかったかのように。
お前さ、置いていかれるほうが何も感じないと思ってるのか?
喉の奥からせりあがった悲鳴は熱いキスに飲みこまれた。こんな。こんなはずじゃなかった。だって親父が死んだってマーヴは飛べなくなったりしなかった。母さんが死んだって俺は生きていけなくなったりしなかった。だからお前だってそうだと思った。俺がいなくなったって、ちょっと落ち込んだら立ち直って、アイツの分まで飛んでやるんだなんてカッコつけたこと言って。お前の人生を生きて、楽しんで。幸せになって。そうだと思ったんだ。そうだと思ったのに。
俺は自分の人生を生きたかった。誰も親父を知らない、マーヴを知らない、俺だけの人生を生きたかった。そのために誰も傷つけてなんかいないはずだった。誰も俺を待ってなんかいないはずだったのに。
唇から流し込まれた熱はもはや五官を支配しあの頃のすべてを痛みのように甦らせた。繰り返す口論、飛び散るスパークのような接触、汗のにおい……。俺達は何もかもが合わなかった。俺はのろまでお前に追いつけなかった。お前はただ先に進みたがって俺を待たなかった。俺を待たなかったじゃないか。
「おかえりルースター。ずっと待ってた」
「ああ。遅くなってごめん」
ルースターはなすすべもなく言った。ハングマンが心から嬉しそうに笑った。
101回目の
2012.04.14 フライトスクール
「ようブラッドショー。聞いたぜカレシと別れたんだってなあ? 寂しけりゃ俺が結婚してやろうか? ん?」
「うるせえな。人の弱みを面白がるお前は最低だ。次にそんな口きいたらぶん殴るぞ」
2016.07.08 ハードデック
「ヒュー! いいぞルースター! 次いつもの弾いてくれよ」
「ルースター最高! 結婚して!」
「はは、いいぜベイビー、酔いが醒めても覚えてたらな」
「『ルースター! 結婚して!』」
「あのな中学生じゃねえんだからマネすんなって。お前は覚えててもダメ!」
2019.09.13 官舎前
「今日は楽しかったぜ。どうだ俺たち意外と気も合うし結婚するか?」
「ぶはは! 早い早い! でもたしかに一回目のデートにしちゃ上出来だったよな。お前のことだしまたからかってんのかと思って五回くらいドタキャンして悪かったよ。あ、上がってコーヒー飲んでくか?」
2020.06.27 夕日の見えるレストラン
「ルースター。結婚しよう」
「ありがとう。あのさ。今の俺たちの関係ってすごくうまくいってると思うんだ。もう少しこのままじゃダメかな? ほらお互い次の任地もまだわかんねえしさ」
2020.12.06 基地内離陸場
「ルーースターー! 行く前に俺と結婚してから行け!!!」
「え何? 聞こえねえよ! むこう着いたら連絡するわ。いつ帰れるかわかんねえし待ってなくても……うわっバカ滑走路妨害! 滑走路妨害!!」
2021.11.09 前線との通信状況悪化のため字数制限されたメッセージ
『結婚』
『無理』
2022.01.21 軍病院
「やっと起きたか寝坊野郎。だから言っただろ結婚しとけって。死んでからじゃ遅えんだから今しろ。すぐしろ。いいからしろ」
「……あのさ俺いま意識戻ったばっかりだから。遠慮しろよさすがに。……なあそんな顔すんなって。心配かけてごめんな」
2023.05.13 B.B.フライトスクール
「開業一周年おめでとう! だからうまくいくって言ったじゃない。あんた私より教官の才能あるもの。で、新しい仕事が軌道に乗るまで待たせとくって言ってたその隣のヤツどうするの?」
「ふふん余計なお世話なんだよ。俺達もうすぐ結」
「あー、こいつが現役のうちはちょっとなー。軍人となんか結婚するもんじゃないって、うちの母さんの遺言なんだよな」
2023.08.24 電話
「エアラインから採用の連絡きたぞ! け」
「あー、わりい今ちょっと忙しくて。いやほらマーヴがペニー達と世界一周ヨットの旅に出ちゃっただろ? 留守の間サボテンに水やんなきゃいけないんだよな俺」
2023.08.27 モハーヴェ
「なあ。結婚しようぜ」
「あー、…………」
サボテンに水をやる手が止まった。沈黙。目の前の男がガッツポーズする。
「3、2、1、アウト! 勝った!」
「ちょっと待てタイムタイム! あと3秒考えたらなんか出てくるから」
「ダメだそんなキレの悪いクソみてえに絞り出した理由は論外なんだよ。出なかったんだから諦めろ。きばるな!」
ロマンチックもクソもない台詞を吐きながら片膝をついて指輪をさしだしているジェイクをブラッドリーは改めてまじまじと見た。主不在のマーヴェリックのガレージには二人(といつのまにか増えた観葉植物やインテリア、家族の生活感に溢れた小物たち)以外だれもいないし、外は見渡すかぎりの砂漠しかない。これ以上逃げる場所もないので、ブラッドリーは息を吐いて言った。
「お前それいつ買ったんだっけ?」
「お前と初めてキスした日の翌日」
「何度聞いても衝撃だよな。せめて初めてセックスした日にしろよ」
「ヤれたからもう俺のものだって? 俺はそんなクソ野郎じゃない」
ジェイクがしかめ面をする。それが本気で心外そうだったので、ブラッドリーはつい浮かびかけた笑みを咳払いのふりで隠した。
「ごほん。あー、そもそもずっと疑問だったんだけどさ。なんでそんなどーしても結婚したいんだよ。お前そういうガラじゃないだろ」
「そりゃお前がどーしてもしたくなさそうだから」
ぶほ、と思わず噴き出す。
「俺が嫌がるからしたいの? 嫌がらせで? お前すごいなまだ伸びしろあんのか性格の悪さに」
「人聞きの悪い。いいか俺と結婚したらお前はすごくハッピーになるだろ。で、なんであんなに嫌がってたんだろう俺ってバカだったなって反省するだろ。お前がバカで俺が正しいってことを完膚なきまでに証明してやりたいから」
「人聞き良くなってねえよ。まだ性格悪いっつの」
我慢できずに笑った。ジェイクも笑っている。
立ち上がり、手を取る。額を寄せる。ムカつくことしか言わない唇がまるで宣誓のように言葉を紡ぐ。
「絶対にわかる。俺が正しかったんだってお前にもわかる。絶対に。後悔なんかするわけない。なにしろ俺とお前のケンカじゃいつだって俺が正しかった。そうだろ?」
「夢見てろ。それが素敵なプロポーズだと思ってるやつと結婚するバカがどこにいるって?」
ブラッドリーはガレージの壁に飾られた写真を見た。その中の一番よく見える位置に留められた古い一枚を。弾けるような笑顔の若い三人。
「お前一度も聞かなかったな。なんでそんなに嫌なんだって」
「ああ」
「ハッピーじゃなくてもいいし、後悔しても別にいいよ。そんなのは大したことじゃない。永遠の愛も誓わなくていい。そんなのは俺だって保証できないし。ただ」
「ただ?」
手を握る。震えないように強く。
「一秒でいいから、俺より長生きするって誓えよ」
ジェイクは心底拍子抜けした顔をした。
「一秒? 順当にいっても四年はあるだろ。ブラッドリー・ブラッドショー、バカだとは思ってたがまさか引き算もできなくなったのか?」
「だからなんでそれで結婚してもらえると思うんだよ。最低!」
やっぱ俺ってバカかも、と笑いながらブラッドリーはぶん殴るかわりにキスをした。
He is a bully!
コヨーテがそれを聞いたのは偶然だった。
「向いてねえんだよ。時間の無駄だ。さっさと諦めてママのところに帰ったらどうだ?」
嘲笑。繊細なものが壊れる音。
フライトスクールの廊下の角を曲がろうとしていたコヨーテは、一瞬の逡巡の後、踵を返して声のほうへと向かった。そこは使っていないはずの教室だ。廊下から中を覗くと、何人かの同僚が笑い合っている。
違う。正確には笑っている何人かと、笑われている一人だ。後者にコヨーテは見覚えがあった。午前のシミュレータ訓練でF-16を二度クラッシュさせたやつだ。
「あ」
そいつは床に落ちた眼鏡――細いつるが折れている――を拾おうと手を伸ばした。その手が届く前に、華奢な音を立ててフレームが教室の隅へ飛んだ。コヨーテは息を飲んだ。
「見えてねえんだからあったって意味ねえだろ。作り直せ。でなけりゃ実機で味方を殺す前にやめちまえ」
眼鏡を蹴り飛ばしたブーツは金髪の男のものだ。コヨーテは思わず中に足を踏み入れた。
「おい。何してるんだ」
「よう。マチャド」
金髪が振り返ってにやりと笑う。まずいところを見られた、という後ろめたさすらない。そのふてぶてしさに気を取られたコヨーテはその男がなぜ自分の名を知っているのか考えなかった。
「時間だぜ。遅れるなよ、優等生」
すれちがいざま馴れ馴れしくコヨーテの肩を叩いて金髪が立ち去ると、取り巻いていた連中も笑いながら教室から出て行った。クソ野郎ども、とコヨーテは思わず吐き捨て(汚い言葉を使うなというのがコヨーテの父の教えだったのでそんなことは滅多になかった)、壊れた眼鏡を拾ってやると、うなだれた肩を叩いて午後の訓練に一緒に向かった。
確かに、そいつは向いていなかった。アビエイターどころか軍人にすら。しばらくして除隊し、シティに戻って大学院に行った。フェイスブックの元気そうな写真を見てコヨーテは安堵したが、だからといってあの弱いものいじめ連中への憤りを忘れたわけではなかった。あんなふうに人の努力を足蹴にする権利など誰にもない。たとえ本当のことだとしたって。
コヨーテは、自分でもわかっているのだが、執念深い。いったん目標を補足したらどこまでも食い下がる癖がある。幸いなことにそれは軍隊では長所だった。だが時に短所でもある。とくに酔客ばかりの週末のバーでは。
フライトスクールの修了を目前に控え、気の早い祝杯をあげる同僚たちと飲んでいた時だった。酔った勢いで夢や抱負を語り合う中、一人が、修了したら自分は回転翼に進むつもりだと言った。
回転翼といえば捜索・救助活動の花形だ。コヨーテにはそれがどうしても聞き流せなかった。そいつを忘れていなかったからだ。あのとき教室で笑っていた取り巻きの一人。
「他人の痛みがわからないやつに救助は向かない」
コヨーテは口を出した。
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味だよ」
撤回する気はなかった。だが己の名誉のために言えば、殴り合いをする気もなかった。お前何様のつもりだ、と酔った相手に襟首を掴まれた瞬間も、コヨーテは抵抗しなかった。しても無駄でもあった。相手はネイビーにしても屈強な体格の男だったし、しかも似た者同士のお友達が三人も後ろに控えている。
だからそれはコヨーテではなかった。警告もなくそいつの顔面に右ストレートをぶち込んだのは。
「てめえこそマチャドの半分も飛べねえくせに何様のつもりだよ! だいたいお前が固定翼に来たくねえのは耐G訓練でゲロまみれになったからだろ? その程度の根性じゃ他人を助ける前に自分が死ぬだけだぜゲロ野郎」
嘲笑。聞き覚えがある。強烈に。
声の主を振り返る。そこには満面の笑みを浮かべたあの金髪の男――後のジェイク・"ハングマン"・セレシン――が立っていた。
四対二にしては健闘したほうだった。
二人そろって腫れた顔面をビールで冷やしつつ、あいつらと友達じゃなかったのか、と聞くとハングマン(その頃はまだハングマンですらなかったが)は「いや全然」とあっさり言った。
「じゃあなんで一緒になっていじめてたんだ?」
「誰を? そんなことあったか?」
ハングマンは覚えてすらいなかった。あのとき笑っていた連中はコヨーテ(も実はまだコヨーテではなかった)と同じくただ通りかかった野次馬だった。ハングマンはクソ野郎だが群れるクソ野郎ではなかったのだ。
結局、二人で明け方まで飲みながらコヨーテはこんこんと説教した。
「お前は平等主義者ってわけだろセレシン。弱いやつも強いやつも平等に馬鹿にする。いいか、平等なんてクソだ。弱いやつを馬鹿にしたら、他に何をしてようがクソ野郎なんだよ」
ハングマンは爆笑した。
「平等主義者はお前だろ。この俺とも友達になるくらいだからな」
それで初めてコヨーテは自分がハングマンの友達であることを知った。いつからそうだったのかは永遠の謎だ。
かくしてなりたくてなったわけではないとはいえ、友人になってみれば、ハングマンはそれほど難しい人間ではなかった。どころかバカみたいに単純だった。ハングマンは飛べるやつが好きで、飛べないやつが嫌いだ。しかもそのどちらにも同じことをする。つまり絡む。からかう。怒らせる。バカみたいに平等だ。
コヨーテは困った。
コヨーテはただでさえ恵まれた家庭の出ではない。アビエイターはコヨーテの夢であるだけでなく、家族と地元の皆の誇りでもある。金髪のニヤついたトラブルメーカーの“友達”として周囲の心証を悪くしている余裕などコヨーテにはない。
しかし父は貧しくてもコヨーテをまっとうな人間に育てた。ゆえにコヨーテには責任感があった。いくらやめたいと思っても、後任もいないポストをやめるのは心が痛む。そしてハングマンの友達の後任はいなかった。ぜんぜん。まったく。
困ったら努力しろ。神様は見ていてくださる、ジェイヴィ。
コヨーテは幼少からの父の教えのひとつを守った。コヨーテは努力した。少しでもハングマンを友達甲斐のある人間にするために。
「本当のことなら何を言ってもいいと思ってるんだろ。本当だってことと、お前にそれを言う権利があるってことは違う」
「フェニックスやヘイローに絡むな。なんでだって? お前ってクソがいなくてもあいつらが相手しなきゃいけないクソは俺達より多いからだよ」
「嫌いなやつは無視しろ。好きなやつは特別扱いしろ。誰にでもケンカを売るな。頼むから」
コヨーテの説教または懇願をハングマンはいつも上機嫌で聞いた。にんまりと笑う。
「はは。本当に変なやつだな、お前」
変なやつはお前だ。
いくら理屈を説いても感情に訴えても、それはハングマンから自分への友情を(なぜか)深める以外の効果は大してないようだった。コヨーテは(しなくていいのに)ハングマンの大親友に昇格した。
だが結局のところ、父は正しかった――父はいつだって正しい――コヨーテの執拗かつ虚しい努力を神は見逃してはいなかったのだ。転機は招集という形で訪れた。トップガン。最高機密の特別任務。
「おーい、こっちこっち! 皆の席とっといたぜ」
「ファンボーイ! 久しぶりだな」
眩しい夏に出会った仲間達との再会は、もう秋風も冷たくなった頃だった。
ネバダの研修センターはサンディエゴに比べればずっと新しい。朝一番のミーティングを前に賑わう食堂も、給食ではなくビュッフェが提供され、軍の施設というよりちょっとしたホテルのようだ。
自分の皿をファンボーイの隣に置き、コヨーテはあたりを見回した。
「皆?」
「ほとんど全員だよ。ルーベンだろ、ボブだろ、フェニックスだろ。さっきオマハとヘイローも見た。ハーバードとかイェールもどうせいるだろ、こういうの得意そうじゃん。お前は一人?」
「いや」
「おい来てねえわけねえだろ俺が。WSOのくせにひでえ視野だな」
見えてたけど他人のフリしようかと、と肩をすくめたファンボーイに、ハングマンは笑ってそのまま“皆の席”のひとつに自分の皿を置いた。ごく当たり前に。
今週ここで行われるのは次世代戦闘機とそれに伴う航空支援の変化についてペンタゴンの招聘講師による研修で、各基地の指導官レベルのパイロットが集められていた。つまり、見知った顔はほとんど来ている。少しすると名前のあがった連中もやってきて、テーブルは賑やかになった。
コヨーテは感慨深かった。
ハングマンが仲間といる。しかも談笑している。誰かを泣かすとか小突くとかでなく(俺は幼稚園の参観にきた親か、という心の声は無視した)。あの特別任務のあと、ハングマンは変わった。他人の無能を大声であげつらわなくなった。誰が聞いてもオフェンシブなコメントをし、にやりと笑って「No offence」と言わなくなった。自分の長年の努力がとうとう実を結んだ、かどうかはともかくとして、この調子なら自分の卒業の日も近いかもしれない。ハングマンの唯一の友達としての。これからはハングマンのたくさんの友達の一人としてやっていける。それはコヨーテのストレスとキャリアにとってもありがたいことだった。
コヨーテが二杯目のコーヒーを取りに立とうとした時、ばたばたと食堂に駆け込んできた人物がいた。「ルースター!」と手を上げて呼んでやる。
皿もとらずにどさりと着席したルースターは、手近の誰かのコップの水を一気飲みし、はあっと息を吐いた。
「わり、寝坊したわ。その卵どこにあった?」
「ルーキーかよ。寝癖すげえぞルースター」
ペイバックが呆れた。とびでた巻毛をフェニックスが横目で見る。
「何。やりすぎ?」
ぶほ。とコヨーテが噴き出しかけた。ルースターはちょっと鼻に皺をよせただけだ。
「勘弁しろよ。こんな爽やかな朝に」
「何をとは言ってないじゃん。何だと思ったの?」
フェニックスが一同に向き直って言った。
「こいつ恋人できたのよ。謎の」
「謎の?」
「それがぜんっぜん口を割らないの! 一日中テキスト見てニヤニヤしてんのにさ。私、上官と不倫してるに一口賭けてんだけど」
「俺をなんだと思ってんだよ。マーヴじゃあるまいし俺にそんな度胸ねえって」
「ええ大佐ってやってんの? 誰? 誰? サイクロン?」
笑い声。ごほん、と気を取り直し、コヨーテは一応釘をさした。
「あまり追及してやるなよ。不倫じゃなくたってゴシップに飢えた海軍飛行士の群れの餌食にはなりたくないだろ。ルースターの彼女が怖がって逃げたらどうするんだ」
「サンキュ、コヨーテ。彼氏な」
「あ、そうか」
訂正されてコヨーテは頭を掻いた。知らなかった。少し驚いたが、それを顔に出すほどバカではない。
「ははあ! お前、ディックをしゃぶるのも好きだったのか!」
場が凍りついた。いた。バカが。
声の主を振り返る。その表情にコヨーテには嫌というほど見覚えがあった。人が大声で言われたくないことを発見した時のハングマンは輝いている。
「空の上じゃ冒険の一つもしなかったあのルースターがベッドの上ならどっちでもこいとはな! ちょうどいいぜ、退屈な講義の間に俺のも舐めてくれよ。なあ?」
ルースターがあんぐりと口を開けた。怒りより信じられないというように。
「お前さ。アタマおかしいんじゃねえの?」
コヨーテは心中全力で同意した。そうだルースターもっと言え。そいつはおかしい。だいたい、なんでよりによって今、ルースターなんだ。
ルースターはいいやつだ。コヨーテ以外でハングマンにとって友達にもっとも近いものとさえ言える。ルースターは、ハングマンにどれだけ絡まれても怒らなかった(例外は一度だけだ。ハングマンは大喜びだった。本当に友達をやめたいとコヨーテは思った)。それにあの握手。あれは感動的だった。甲板で見ていた全員が美しい友情の始まりを予感した。いやさすがにそこまでおめでたくなかったコヨーテですらちょっと期待した。それなのに。
コヨーテは深く深く失望した。あいつ、少しは変わったと思ってたのに。
「どっちでもいいからって誰でもいいわけじゃねえよ。お前マジで俺をなんだと思ってんだ?」
「へえ、お前は一途ってわけだ。そんなに今くわえてるディックが好きか?」
「ああ。最高だね」
にいとハングマンが笑みを深くした。引き上げられた口の端がほとんどありえない角度を描く。
「じゃあ隠さないで皆に教えてやれよ。こいつらだって興味あるんだろ? お前がどんな男をくわえこむのか。美味いディックを独り占めしたいってんなら無理にとは言わねえがなんでもお友達とシェアしたがるルースターにしちゃ珍しい――」
「おい、いい加減に」
コヨーテの台詞は遮られた。ガタン!と音を立ててルースターが立ち上がったからだ。食堂中の視線が集まる。寝不足で赤い目が据わっている。まずい。
「どうなっても知らねえぞ」
「望むところだぜ」
ハングマンが喜色満面に立ち上がる。
テーブル越しに視線が絡む。
次の瞬間、ルースターの両手がカーキの胸倉を掴み上げた。
「よせ――」
止めようと周囲が伸ばした手は遅かった。激突は起こってしまった。ただし拳と顔面ではなく、唇と唇の。
唖然と時が止まった食堂内で、コヨーテが誰よりも早く我に返って目の前の事態を認識したのは、ハングマンが「ん」とハッピーな猫のように喉を鳴らしたからだ。コヨーテは思わず赤面しかけた。
お前、そんな甘ったれた声出したことないだろうが。
「はっ」
ルースターが息を吸った。
どん!と掴んだ時と同じ唐突さで突き放す。たたらを踏んで椅子を蹴とばしたハングマンが笑い声を上げた。
「もう終わりか? 口ほどにもねえな。もっとしようぜ。な」
「んなムカつくおねだり聞いたことねえわ。お前さあ皆にカムアウトするの嫌だっていうから俺苦労して内緒にしてたのになんなの? アタマおかしいんじゃねーの? やべえぶち切れそう今」
「俺とお前がファックしてますってことをなんでこいつらに畏まって言わなきゃならねえんだよバカか? 俺がしたいのはご報告じゃねえ。ご自慢なんだよ。マジで舐めてくれていいんだぜ講義中によ、見せつけてやれるじゃねえか」
「するわけねえだろチンコ噛み切るぞ。お前みたいな変態と違って俺は見せつけて興奮する趣味ねえんだよ。俺はな誰もいないとこでお前とふたりっきりででろっでろにエロいことできなきゃ興奮しねえの昨日みたいに。わかったら二度と人前で煽るんじゃねえクソ野郎」
ルースターが中指を思い切り突きあげる。ハングマンが満面の笑顔で中指を立て返した。愛の告白のように。
「腹へった! 卵どこだって?」
だしぬけに叫ぶとルースターは踵を返してばたばたビュッフェのほうへ走っていった。まだ硬直したままのテーブルを残して。
沈黙の中、悠然とカーキの胸元を正し、隣に着席したハングマンをコヨーテはまるで未知の生物のように見た。
「お前……」
「ん?」
コヨーテは幼少からの父の教えのひとつを破った。つまり友達の頭をはたいた。ハングマンが爆笑した。
「付き合ってるならやるなよ! 何考えてんだ!」
「はっは! お前が言ったんだろ平等主義はクソだって。お前のおかげで俺は変わったんだ。特別なやつにしかケンカは売らねえことにした。な、偏愛主義だろ?」
そう言う間にも目はルースターの背中を追っている。深い恋に落ちているような眼差し。それを見てコヨーテは本当に、本当に友達をやめたいと思った。
すまないルースター。俺はとんでもないやつを育ててしまったかもしれない。
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