ルースターがぶっ倒れた。文字通り地面にダイブした。俺の目の前で。

「よりによって訓練中に卒倒とはクソ度胸だな。座学だからまだ良かったが実技だったら大惨事だぞニワトリ聞いてんのかオイ」
「さすがに乗ってねえけどな実技なら。自覚症状あったし」
「あるのになんでメディカル行ってねえんだよ自己管理どうなってんだ? あ? キャリア何年目だ? 昨日孵化したひよこかお前は」
「いや自覚症状あったら遅いんだよこういうの。だから先延ばしにしてもいいと思ってた」
「1秒遅れるのも10秒遅れるのも同じってか。さすがはファッキンノロマの考え方だな。てめえのクラスは俺が完璧にカバーしといてやるから成鳥になるまで退院してくるな」
「サンキュー。あとファックユー」
 天井へ突き立てられた中指がストレッチャーで運ばれていく。それが病院の廊下に消えるのを見届けて俺はやっと息を吸えた。嫌な汗をかいた制服が冷たい。
 救急車より速いと基地から飛ばしてきた自分の車に一人で戻る。頭上を仰ぐ。六月のサンディエゴの空は一点の憂いもなくどこまでも青かった。



 翌日、夕方になってからようやく病院に着くと、教えられた病室から楽しそうな笑い声がした。
 足を止めて開いたドアから中をのぞく。ルースターがベッドサイドの若い男と談笑している。俺の見たことのない、いかにも誠実そうな男だ。
「ルースター」
「よう」
 知らない男は俺と入れ替わりに会釈して出ていった。その背中を見送って、
「誰だ?」
 聞くのが速すぎた。思わず口の中で舌打ちした俺に、無頓着にあいつは言った。
「ソーシャルワーカー」
「ソーシャルワーカー?」
「そう。俺、家族がいないから」
 物心つく前に父親を亡くし、グレードスクールのうちに母親も亡くして、信じてた叔父(他人だが)とは十代で決別。残ってた祖父母もとっくに見送って。絵に描いたような天涯孤独。
 バラバラの伝聞と憶測をつなぎあわせて、俺はひそかにそれを知っていた。が、こいつの口から直接聞いたことは一度もなかった。今この瞬間まで。
 ベッドサイドのテーブルに入院事務の書類。そこにあるこいつのnext of kin(最近親者)の欄は空白で、そういう珍しい患者を見ると病院に出入りのソーシャルワーカーがすっとんでくるという。それを聞いて俺は当然言った。
「大佐は?」
 まるでアホを見るような顔でルースターは俺を見た。
「連絡つかないよ」
 俺は憤慨した。こいつの言ってることは正論だ。ピート・"一匹狼"・ミッチェル大佐ほど連絡のつかない人間はいない。そもそも滅多に地上にいないし、いても機密にでも関わってりゃ数ヶ月外部と音信不通なんてざらだ(そしてペニーに大佐の行方を聞くことはできない。「私はあいつの留守番電話じゃない」と彼女は宣言し、それはハードデックの新たなペナルティルールに追加されている)。連絡のつかない人間を緊急連絡先にしても意味がない。そりゃそうだ。だがそれならアホは大佐であって俺じゃねえだろうがバカ。
「俺がいるだろ」
 俺は口走った。
 ルースターの顔がアホから宇宙人を見るものに変わった。出世だ。
「は。いるから何だよ?」
「俺の名前を書けばいいだろ。連絡くらい受けてやる」
「え。嫌だよ」
 一秒くらい考えろ。
「お前を担ぎ込んだの誰だと思ってんだ。目の前でぶっ倒れたやつを自前でデリバリーしてきてんだぞ。どう見ても俺が関係者だろ」
「そりゃまあ助かったよ。ずっと腹痛いなーとは思ってたけど激痛で気失うと思ってなかったからさ。お前が俺の座学を訓練生と一緒に座ってニヤニヤニヤニヤ聞いてんの一回マジでぶん殴ろうと思ってたけど、お前のそのクソな性格役に立つことあるんだな」
「感謝の気持ちがひしひしと伝わるぜ。なんで嫌なんだよ」
「性格がクソだから?」
 クソ、反論の余地がねえ。俺はちょっと角度を変えて言った。
「ウォーロックから今朝聞いたぞ。お前検査のために数日入院するだけだって。ソーシャルワーカーの世話になる必要なんか」
「あるよ。俺が急変して意識不明になったら誰が意思決定するかとか」
「は?」
 急変とかそういう話かこれ。いやそもそも。
「お前なんで倒れたんだ?」
「内緒」
 にやっと口元に一本指をあてる。機嫌のいい時のこいつは話にならない。俺はそれを知ってる。いくら煽ったって挑発したってのらりくらりして乗ってきやしないんだ。話にならない。俺が相手じゃ。
 こんな時こいつが本音を話しそうな人間を俺は一人しか知らない。こいつがご機嫌じゃいられなくなる人間。俺には見せない顔を見せる人間。腹の底からせりあがる苛立ちを奥歯で噛み潰して俺は聞いた。
「本当に確認したのかよ。大佐に。来られねえのかって」
「わかんねえよ。連絡してない」
「しなかったらわからないだろ。まさかマジでバカなのか?」
「忙しいだろあの人。余計な心配かけたくないし」
 言って視線を外す。だからなんなんだよお前らのその感じは。ああ苛々する。
「あのなあ、お前がいい子ちゃんをやるからあっちが図に乗るんだろ。都合のいい時だけ父親面しやがって。首輪つけてひっぱって来てやろうか」
「ははっ」
 ルースターがウケた。ウケ狙ってねえんだよ。
「お前あの人が嫌いだよな。そっくりなのに」
「どこが。あのトンデモ大佐殿に似てる人間なんか地球上のどこに」
「カッコよくて飛ぶのが速い」
 俺はぽかんとした。言った本人も妙な顔をした。ウケたついでに出すつもりじゃないものが出てしまったように。お前の心の声は屁かよ。
 俺はテーブルの書類を掴んだ。ルースターの胸に押しつける。
「俺がいるだろ。俺にしろよ」
 俺は言い張った。お前がどう思おうと俺はあいつとは違う。だってどこにいるかもわからないあいつと違って俺は今お前の目の前にいるじゃねえか。お前が頼るのは俺であるべきじゃないのか。なんで俺じゃだめなんだよ。
 ルースターは黙っていた。不審そうに押しつけられた紙を見下ろすその眉間がふと緩んで、少しずつ目に光が宿る。やがて俺を見上げたお前の顔は期待に満ちて俺の呼吸を少し止めて、そして言った。
「じゃ、結婚してくれる?」




Will You Marry Me?
(you are the worst, by the way)




 絶句した俺にかまわず、いや思い出したんだけどさ、とルースターはいかにも名案を思いついたようにもっともらしく口ヒゲを撫でた。
「お前って結婚しない主義だったよな? 絶対? 一生?」
「ああ」
 俺と一度でも同じ部隊になってそれを知らないやつは多分いない。でもって今こいつ結婚してくれって言わなかったか? まさか昨日倒れた時に頭を打ったのかもしれない。ちゃんと検査したのか?
 俺の返事を聞いて、ルースターは心底満足げにうなずいた。
「じゃあいいだろ。お前その権利一生使わねえんだから俺としても。頼むよ」
「どんな理屈だ。ちょっと待てお前まさかとは思うが俺に惚れてんのか?」
「ファック・ノー。お前俺に好かれるようなこと一個もしてねえだろ。あ、一個したか。でもあのあと救世主様だなんだってクソほど奢らされたからプラマイちょっとマイナス」
「命の恩人なんだから当然だろうが一生奢れ。てめえの命はビールより安いのか?」
 抱えた書類を脇に投げ出して、お前は肩をすくめる。
「結婚してくれないならお前の名前は書かない。だって意味ねえもん」
「関係ないだろ! 家族でなきゃならないなんて法律はねえぞ」
「いちいち説明するのが面倒くさいんだよお前との関係とか。そういや俺とお前の関係って何?」
「同僚」
 友人、とさえ言えずに俺は即答した。さらに言えばその同僚の地位ですら簡単に手に入れたわけじゃない。
 そもそも今期のトップガンの教官をオファーされたのはルースターだった(案の定こいつは訓練生から評判がいい。ウォーロックの見込み通りだ)。それを知ってから猛烈に自己アピールし、持ち前のしつこさでひたすら纏わりついた結果、音を上げたウォーロックから指名をもぎ取ったのが俺だ(案の定訓練生から評判は悪い。俺は仲良しこよしするためにいるんじゃねえからな)。
 ルースターは鼻で笑った。
「普段は4000kmも勤務地が離れてるのに? このプログラムが終わったらリモアに戻るんだろ」
「そりゃまあ」
「だからお前は何もしなくていいよ。誰にも言わなくていいし。マリッジライセンスだけ出したら忘れてもいい。あとは俺がやっとくからさ」
 意味がわからない。そんなことして何になるんだ。なんかの詐欺じゃねえのかそれ。いや俺は教会の宣誓台の前で嘘をつくことなんか屁とも思わない。でもお前とじゃだめだ。だって俺は。
「別に悪い話じゃないと思うぜ。俺が死んだら残ったものは全部やるしさ」
「てめえの遺産狙ってるゴールドディガーに見えるか。俺が」
「全然」
 またウケた。お前のツボが一切わからねえ。
 その後すぐやってきた看護士がまだ笑ってるルースターを検査に連行していったので、俺は一人でそこに取り残された。理解が追いつかない。俺がお前に追いつかないなんて、そんなことあんのか。



 マーヴェリックは本当に連絡がつかなかった。まず探りを入れたウォーロックは「知らん」と一言。マーヴェリックの教え子(ってほど立派な教官でもなかったが。パイロットとしちゃ一流でも教官としちゃ二流以下だ。教えるのなんかルースターのほうが明らかに上手い)である例の特別任務組も誰も消息を聞いてない。ホンドーの情報じゃモハーヴェにもいないみたいだ。また極秘任務にでもついてんのかよ。
 ルースターなら秘密の連絡先を知ってるのかもしれないが、あいつは連絡しない。クソ。なんでそんな面倒くせえんだ。
 にらみつけていた電話を寝室のベッドに投げ出す。数秒考えて、俺はそれを再び手にとった。そうだ。探りを入れるべきことはもう一つある。
 それなら知ってる、とフェニックスはあっさり返信してきた。
『昔にも一回あったから。胃腸炎かなんかで入院した時。私の名前にしとこうかって言ったけど断られた』
『なんで断らせてんだよ。あいつのお世話係はお前じゃねえのか』
『羨ましいんでしょ? 指くわえて見てないで代わって』
 ふん。その程度の図星でうろたえる俺じゃねえんだよ。
『あいつメッセージ返信しやがらないんだけど。生きてる?』
『生きてるよ。今日は』
『何? 明日死ぬの?』
 知らねえよ、と打って俺は苦虫を噛み潰した。それが本当だからだ。俺は何も知らない。知る権利がない。
 短気なフェニックスが俺の相手に飽きる前に、俺は急いで質問を打った。
『あいつお前に結婚してほしいって言ったか?』
 返信はナスとキスマークの絵文字だった。"ディックでもしゃぶってろクソ野郎"。つまりノーだ。俺はサンクスと一言返してメッセージを閉じた。
 ばたんとベッドに倒れて天井を見る。親友のフェニックスに言ってないならあれはあいつの定番ジョークじゃないってことだ。俺に言った。わざわざ俺に。あいつの嫌いなクソ野郎の俺に。一体なんで?
 俺は頭の中であらゆる可能性を検討した。まず考えられるのはうるさい俺を黙らせるための不意打ちのブラフだ。ああ言えば俺が引き下がると思って。だとしたら舐められたもんだぜ。見てろよ俺は一生このネタ擦るからな。ニワトリ君お前俺にプロポーズしたよなあって死ぬまでクソほど絡むし心底うんざりしたあいつの顔が目に浮かぶ。ざまあみろだ。でもあるいは。あいつは具合が悪くて本当に参っていて(それか鎮痛薬でハイになってて)うわごとを言ってたのかもしれない。それにしちゃ平気な顔してたが。いやあいつはいつもそうなんだ。我慢して我慢して急に限界になる。だいたい今回倒れたのだってそうじゃねえか。俺に見せないだけで本当はかなりキてるのかもしれない。カウンセリングとか受けさせたほうがいいのか?
 いくつもの思考の狭間に、俺はそれでもほんの少しだけ、考えた――もしかしたらあいつ本当は、本当に、俺に好意があるのかもしれない。その都合のいい妄想にしばし耽ったあと、俺はその可能性をまるごと捨てた。いくらなんでも無理がある。あいつの言ったとおりだ。あいつには俺を好ましく思う理由が何もない。それどころか俺はあいつを馬鹿にしたり神経を逆撫でしたりすることばかりしてきた。これで好かれてたら逆にキレそうなくらいだ。お前を侮辱するやつなんかお前が好きになる価値はねえだろうが。
 夜は更けて眠れそうもなかったが構わなかった。幸いニワトリの臨時退場のせいでやることは山積みだ。朝は遠いし、妙な夢は見たくない。



「ヒヨコどもがお前が恋しいってピーピー泣いてるぞ」
 なんとか今週の訓練を終えてもルースターはまだ病院にいた。のんきに新聞のクロスワードなんか解いていやがる。こっちは目が回るほど忙しいっつうんだ。
「皆ちゃんとやってるだろ? 今期のクラス優秀だしラクだったよな」
「テメエらはこの十年で最悪のクラスだ。ケツに殻つけたまま死にたくなけりゃ死ぬ気で飛べ。と今朝言ってきた」
「ハートマンかよ」
 そのうち撃たれんぞ、と呆れたあいつを鼻で笑い、俺は足を組んだ。
「甘ちゃんのお前がいないとバランスが悪い。いつ退院するんだよ」
「検査の結果待ち」
 土曜の午後の病院は静かだ。話もはずまない俺達ならなおさら。
 俺はクロスワードを解くあいつの横顔を見ながら、膝に頰杖をついた。
「おい。お前アレ。何だったんだよ」
「何が?」
 けっこん、と口の形だけで言う。目を上げたルースターは、あろうことか、ほっとしたような顔をした。
「ああ。してくれんの?」
 なんなんだ。ジョークじゃない。ブラフならこんな顔はしない。ハイどころか酒も入ってない(当たり前だ)。じゃあ本気か。本気で、お前が性格最悪だと思ってるクソ野郎と結婚したい? そんなことあるか?
「あのな、するわけねえだろ。常識で考えろよ」
「常識? お前が?」
 ルースターが眉をひそめる。失礼極まりないが正しい。確かにそれは俺らしい単語じゃない。
「だってお前ずっとバカにしてただろ結婚とかさ。バチェラーパーティでもありゃ毎回主役にしつこく絡んでさんざん嫌味言ってウザがられてよ。お前すごいよな空気ぶち壊すの躊躇しねえとこ」
 人生は長いのに一人に縛られるなんて馬鹿だ。俺はずっとそう公言してた。でも本当の理由はそうじゃない。本当は不仲の両親のクソみたいな結婚生活を見て育ったことも、今となりゃどうでもいい。本当の本当は、俺はただ救いようもなくロマンチストで、俺が誰かを愛したなら自分の力だけでその人を一生つなぎとめられるべきでそうでなければ愛なんて呼べないと思っていたんだ。
「だからお前なら気にしないかと思ったんだよ。そうじゃないなら忘れてくれ」
 お笑い草だぜ。一生つなぎとめるどころか、一瞬の視線さえつかまえられない。
「ブラッドリー。今話していいかな」
「ドクター」
 ひょっこり顔を出した医者は一人じゃなかった。あとについて看護士や、俺には役割のわからない白衣のやつらが御一行様で入ってくる。妙に大げさじゃないか? なんともありませんでしたって話、になるやつかこれ?
 医者が俺に気づいて、
「友達? パートナー?」
「俺は」
「仲の悪い同僚。もう帰るとこだから大丈夫」
 俺はまじまじとヤツを見た。
「帰るそぶりあったか俺」
「なかったけど出せよ空気読んで」
「俺がぶち壊す専門なの知ってんだろ。お前それが十秒前までプロポーズしてた相手に言う台詞か?」
「だってしないんだろ。お前は他人、これは俺のプライバシー。看護士さんこいつつまみ出して」
 よしきたとノリのいい二人が俺の両腕を抱えて引きずり出す。ハードデックかここは。解放されたのは十歩先の廊下だったが、ぽんと肩を叩かれ、扉が目の前で閉められた。
 みっともなく扉を叩いて騒いでやろうかと思ったが本当にセキュリティにエスコートされるので、小さな窓から中をのぞく。あいつが何かジョークを言ってどっと笑いが起きた。はいはいどこに行っても人気者のルースター君かよ。とにかくそんな深刻な話じゃなさそうだ。ほっとしたついでに小窓越しに中指を立てると、あいつが笑顔のまま親指を下げてきた。見えてんじゃねーか。
「で?」
 医者達が出ていって、俺は聞いた。追い出されたのは根に持っているので開いたドアに寄りかかったまま。
「手術するって」
「は? 悪い話だったのか。今ので!」
「いや検査で」
 そんなことあんのか。俺は病気も看病もほとんどしたことがないからわからない。
「他の検査結果はまあまあクリーン。俺くらい若かったら普通は良性だけど、俺は家族歴もあるから念のため手術して腹の中見てみましょうってさ」
「家族歴」
 それな、とあいつはいつもどおり茶目っ気たっぷりのルースター君で、まるで酒場でくだらねえジョークのオチでも言うみたいなノリで、
「母さんが同じのやって同じ歳で死んでる」

 どこに笑うとこがあんだよ馬鹿。



 ありったけのコネクション(そこには14歳のアメリアも含まれる。俺は使えるものは何でも使う主義だ)をあたってもマーヴェリックの行方は依然として掴めなかった。だが掴めるものはある。特に空を飛んでいないものなら。
「用なら私のオフィスに電話がある」
「サー・イエス・サー。電話じゃ埒があかねえから参上しました、サー」
 日曜の朝に自宅で掴まえたボー・"サイクロン"・シンプソン中将は、似合わないポロシャツ姿で玄関に出てきた。
「日曜だ。敬礼はいらない」
 心底鬱陶しそうに手を振る。俺は手を下ろしてポケットに突っ込んだ。
「君の問い合わせには何度も答えたと思うが耳に入らんようだからもう一度言おう。ミッチェル大佐の現任務はもはや私の管轄ではない。所在も私の預かり知るところではない。わかったらその詰まった耳クソをかっぽじってさっさと帰れ」
「でもあなたは中将なんだからそれを知ってる人間を知ってるでしょ。所在が機密なら教えろとは言いませんよ。ただメッセージを一つ届けてほしいだけです」
 あの人には感謝されると思いますけどね、と付け加えるのも忘れない。
 ブラッドショーの件か、とサイクロンがうなった。
「検査入院と聞いている。まだ診断も出ていないはずだが」
「だから? 診断が出て、死にそうなら来る、そうでないなら来ない? 見舞いってそういうもんですかお忙しい佐官将官の皆様には」
 ぶち切れられる前にポケットに用意してたメモを差し出す。サイクロンはそれを一瞥してクソでかいため息をついた。
「帰宅して待機しろ」
「命令ですか。日曜なのに?」
「そうだ!」



 帰宅せず病室に向かうとルースターは具合が悪そうだった。冷や汗をかいた首筋が妙に白い。痛み止めを増やせとかナースコールしろとかせっついても鬱陶しそうに首を振る。今日はよく鬱陶しがられる日だ。
 何をすることも、帰ることもできず、俺はただそこに座っていた。
「お前暇なの? 暇なら結婚してくれよ」
「最悪のプロポーズするな。この地球上の誰が嬉しい素敵イエスって言うんだその台詞で」
「俺、迷惑かけないよ」
 ぽつんと言う。俺はカッとなった。
「そういう問題じゃねえよ」
「そりゃそうか」
 あっさり引き下がる。
 何もわかってねえ。
「フェニックスが心配してたぞ。メッセージ返せよ」
「あー。うん」
 視線は合わなかった。あいつの目は窓の外を見ていた。六月の高い空。



 その視界に入りたいと思っていた。どうしても。

 出会った頃から誰とも競争をしないやつだった。上位数パーセントしか希望のキャリアに就けないこの世界でまるで場違いな平和主義者。誰にでも手を貸す。引き立て役だって嫌がらない。気のいい人気者のルースター。
 それはお前がいいやつだから、あるいは間抜けだからなんだと、皆思っていた。どいつもこいつも馬鹿ばっかりだと俺は思った。なんで誰も気がつかねえんだ。競争しないのは眼中にないからだ。てめえらなんか相手にされてねえから優しくされてんだよ。そんなこと一目瞭然だ。だって俺は見てた。誰がどんな飛行をしたってお前は驚きも感心もしなかった。人の輪にはいつも遅れてきて気がついたらいなかった。誰とでも話すのに誰とも話し込まなかった。いつも空を見ていた。ありもしない機影を探すように。
 俺は躍起になった。俺は他のやつらとは違うってことをお前に気づかせたかった。何をしても感心させられないならその逆でもいい。俺はお前の慎重さを、仲間への思いやりを、優しさをとことん馬鹿にして侮辱した。どんな形でも構いやしなかった。お前の気を引きさえすれば。お前が嫌そうに眉をしかめて一瞬でも俺を見るなら。

 俺はただお前の世界から閉め出されたくなかった。こんなふうに。




『おい。今日だろ』
『』
『既読無視すんな』
『』
『ヒヨコどものドッグファイト。予定通りやらせていいか?』
『雲低すぎ。危ないからやめろ。水平と旋回系やらせて』
『言うと思ったぜ過保護教官。見てんなら返信しろ』
『🖕』
『おい。今日だろ』
『だからやめろって。サイクロンに電話すんぞ』
『手術。いつ結果出るんだよ』
『さあ。昼からだから夕方頃かな』
『わかった』
『何お前来るの? 俺寝てるよ多分』
『別にいいよ』
『暇かよ。お前知ってる? 教官って訓練生に嫌味言うのが仕事じゃないんだぜ』
『🖕』

 ロッカールームでメッセージの受信音が鳴った。朝の最後の返信から三時間以上。
『そんなに暇なら俺の部屋行って着替えとか郵便とか取ってから来て』
 だから暇じゃねえっつうの。毒づいて指示通りあいつのロッカーからキーホルダーを取る。午後の訓練を終えてすぐ向かえば麻酔から覚める頃にはきっと間に合うはずだ。
 窓の外を見る。薄暗い空に低い雲。夏前のこの時期にこんな天気めったにないのに。くそ。なんでよりによって今日なんだよ。

「汚え」
 足を踏み入れた瞬間声が出た。あいつ士官のくせに兵舎に住んでるのは知ってた。狭いワンルームを埋めるようなゴミ・食器・洗濯物。ベッドメイクなんか当然してねえ。こいつ本当に軍人か?
 もはや生理的反応でゴミを集め食器をシンクに洗濯物を洗濯カゴにぶち込む。10分もかからねえことをなんでやらねえクソが。クローゼットを開けるとふざけたアロハがかかってる。間違いないあいつの部屋だ。
 着替えを選ぶのは困らなかった。服がほとんどないからだ。俺達ネイビーは、特にあいつは、長期在外も配置変えも多い。ここだって3ヶ月しかいないんだ。私物は持たない主義でもおかしくないがそれにしたって少ない。何セットで回してんだ。
 荷物を持って出ようと振り返ってふと気がついた。入口側の壁一面にかかったフォトフレーム。きっと前の住人の置き土産だ。俺達ネイビーは写真をよく飾る。残してきた家族や恋人。仲間。幸福な過去の瞬間。
 フレームは全部空のままだった。一面の空欄。
「――」
 俺は踵を返した。ポストの郵便物をつかんでポケットにねじこみ、急き立てられるように兵舎を出る。
 車を走らせる。空はますます曇って今にも泣き出しそうだ。思い出すのは泣き言なんか言わないあいつの言葉。
(だって意味ねえもん)
 書類の空欄。あいつの空欄はあれひとつだけじゃないんだ。当たり前だ。大人になる前から一人で生きてきたやつだぞ。きっと何度も何度も何度も繰り返してきたことだ。空欄。不在。持っていない。あいつの言うとおりだ。気まぐれで手を差し伸べて消える他人なんてクソ以下の意味もない。
(いいだろ俺としても。頼むよ)
 そうだ頼むとあいつは言った。あいつがそんな台詞を俺に吐いたことがあったか? これまで一度でも? それが本気じゃないなんてどうして思った? 繰り返す空白に飽き飽きして、疲れて、消えない何かでそれを埋めたいと思ったとしたって何がおかしい?
 俺は言わなきゃならない。お前が俺に本当に頼んだなら俺もお前に本当のことを。俺はお前を愛しているから結婚できない。いやそれじゃ話がでたらめだ。してもいい。それが本当にお前の望みなら。それがお前の人生をほんの少しでも楽にするなら俺は自分の主義なんかゴミ箱に突っ込んだっていい。でもそうしたらお前は、お前にとってはただ埋めるだけの何かでも、お前を愛している人間と結婚することになるんだと、俺はお前に言わなきゃならない。


 クソ今さらどの面下げてだよ。でもそうでなきゃお前にアンフェアだ。世界はもうずっと、十分すぎるくらい、お前にアンフェアだったのに。


 来ないエレベーターも待てず階段を駆け上がって廊下のつきあたり、電気もついてない個室の、窓の灰色の空に浮かび上がるベッド。
 そこにあいつは一人じゃなかった。
 ベッドサイドに佇むシルエットは病院にまるで不似合いなフライトスーツ。
 他でもない。見間違えようもない。あれは。
「マーヴ」
 あいつが呼んだ。麻酔が覚めきってないのかまるで別人みたいな声で。ベッドから伸ばされた手が両手でしっかり握られたのを見て、俺は今走ってきた廊下を少し戻って待った。
「お早いお出ましで」
「わかるよ」
 そう長くも待たないうちに廊下に出てきた男に声をかける。謝罪でも同意でもない。"君の気持ちはわかるよ"だ。カッコイイぜ。ぶん殴りたいくらい。
「メッセージは君か。ありがとう」
「どういたしまして。あいつが連絡しないんでね。あんた信頼されてないのかな」
「というより来たら帰るから嫌なんだろう。帰るなら来るなとよく泣かれたよ」
 よし意味がわかんねえ。だがおそらく俺にわからせるつもりなんてない。過ぎた時間に話しかけてるだけだ。
「もう帰るんですか」
 まだ結果も出てないはずなのに? マジかよ何しに来たんだ。いや会いに来たんだ。フライトスーツを着替える暇さえないのに。空以外のどんな背景にも馴染まない、機械油とアドレナリンと危険が匂い立つ男。まさか超音速機とかそのへんに無許可着陸してねえだろうな。
 それは愛なのかもしれない。あんたなりの。でもいくら人を愛したってそんな生き様じゃどうしようもねえだろうが。
「最悪の可能性だってあるでしょ。これが最後になったらどうするつもりなんですか」
 その背中になんとかダメージを与えてやりたくて、俺は言った。
 マーヴェリックが足を止めた。俺を見ずに窓の外の空を見る。そんなところばっかりだ。あんたがあいつに残したのは。
「それを後悔できる時は過ぎたな」
 二の句が継げない俺に片手をあげて、マーヴェリックは去っていった。マジでなんなんだあいつ。

 ルースターはまだ少しうとうとしているようだった。ベッドサイドに立って顔を覗き込むとようやく重い目蓋を上げて少し笑う。その目が俺を捉えてきょとんとした。悪かったな俺で。
「あれ? なんか夢見た……」
「大佐なら来たぞ。夢じゃないから安心しろ」
 と保証してやらなきゃならないくらいには一瞬のご登場だったぜ。だけど俺の耳にはまだあの最後の言葉が残っている。I'm way past that. そんな時は過ぎた。過ぎて、飛び続けて、あんたは今どこにいるっていうんだ。後悔さえ追いつけない音速の彼方。僚機すら置き去りに飛び続けるってのはそういうことだ。
 俺は唾を飲んだ。何がハングマンだ。俺はただいきがってただけのガキだ。
「おまえ」
 はっとした。ルースターがじっと見上げている。
「顔色わりい。らしくねえ」
「お前が言うなマジで」
「おれはいいだろ」
 よくねえよ馬鹿。
「疲れたんじゃねえの。わるかったなカバーさせて。おれもう退院するからさ」
「まだ結果出てねえんだろ。どうすんだよヤバいほうだったら」
「あーどっちみち先にプログラムおわらすつもりだったんだよ。みんな卒業させたいし。おまえが働きすぎて絶好調じゃなくなっちまうしさ」
 お前は平気で言う。だから俺が痛いような気分になる。アホか考えすぎなんだよ。こんな時に人の心配なんかしねえんだニワトリ以外は。なんていつものルースター。仲間思いの優しいお前。ずっと見ていた。ずっと好きだった。
 俺は息を吸った。緊張で冷えた手を伸ばしてシーツの上の手に重ねる。熱い。
 言おう。
 俺はお前に言わなきゃならない。
 俺は後悔もできない人生は歩まない。
「なあルースター俺は」
「それ」
 どれだ。目はじっと俺を、じゃない俺のジャケットの胸元を見ている。
「サンキュ」
「ああ」
 さっきポストからとってきた封筒だ。そこに入れたままなのも忘れてた。タイミングを失った俺は最初からそうするつもりだったみたいにその手をとって封筒を握らせてやった。銀行から? 今見なきゃいけないやつかこんなの?
「結婚したらさ」
 お前が言った。
 おぼつかない手が封を開ける。ただの退屈な通知。
「おやじの遺族補償、うけとって」
 なのにお前はそれをまるで世界にひとつしかないように見る。まるで他には何も持っていないみたいに。
「かあさんの生命保険の信託とさ。これだけはおれが死んで家族がいないとなくなっちゃうから。それだけどうしても嫌で。ずっと怖くて」
「ああ」
「でもどうしてもだれにも頼めなくて。おれ以外のだれかにこういう思いはさせたくなかったから。おれのこと好きになってくれる、いいヤツならなおさら」
「ああ」
「だけど、ま、おまえならいいのかなって。おまえ嫌なヤツだし、おれのこと嫌いだし、殺してもくたばりそうにねえし。ひょっとしておまえなら大丈夫なのかなって。もしかしたら、おまえになら頼んでもいいのかなって、そう思ったんだよ」
 お前の指がその紙の上の文字をなぞる。事務的な文章と何行かの数字の羅列。そこにある名前を。お前が覚えてもいない、お前の齢にさえならなかった父親の。お前を一人残していくことを知りながら死ななければならなかった母親の。縋るように、甘えるように何度も。
 これがお前の頼りか。こんな紙切れだけが。
 誰の名前もなかった空欄。お前の中の空欄。命知らずのマーヴェリックも、いいヤツのフェニックスもそこにはいない。
 お前はこれ以上もう誰も見送れない。誰も残していけない。だからお前の世界にはお前しかいない。





 なあルースター俺は。

 お前が嫌なやつにしか頼れないなら俺は世界一嫌なやつだっていいんだ。だって俺はずっとお前の世界に居場所を与えられたかった。どうしても。どんな形でも。だからそこにいられるのがお前の嫌いな、殺しても死なねえ、優しいお前が置いていけると思えるクソ野郎だけなら、俺はそれでいい。それがいい。それ以外には何もいらない。お前の愛も好意も笑顔も。何も。





「――人にものを頼む態度じゃねえな」
「は?」
 ルースターがぴくりと眉を上げた。
 俺はにんまりと口元を引き上げる。お前の嫌いな笑い方。案の定言うんじゃなかったというようにみるみるしかめっ面になるのにますます笑う。
「そうだろ? 俺にお願いするってんならそれなりの誠意ってものが必要だよな。お前が言うとおり俺にとっちゃ一生使わねえペーパーワークだ。好きにさせてやってもいいが聞きてえなあお前の誠意が」
「やっぱいい忘れてくれ。すげえめんどくせえわ今」
「まあ遠慮するなよ。いいのか? 俺みたいな特別な人間を逃したらほかにはいねえぞ。お前だってわかってんだろ俺しかいないって。多少の嫌がらせくらいガマンしろよ」
「嫌がらせって言ってんじゃねえか。何言わせたいんだよ」
「お前が俺を本当はどう思ってるか言えよ」
「は」
「プロポーズはそういうもんだろ。いいから正直になれって。聞きてえなアレもう一回。なんだっけ何がそっくりだって? 俺とお前の大好きなアンクルと? ん?」
 ルースターが地獄みてえにうめいた。このうえなく最強にめんどくせえって声だ。俺も声を出して笑った。
「わぁったよ。ジェイク・セレシンは"カッコよくて飛ぶのが速い"! だから結婚してくれ! これで満足か?」
「ニワトリ頭にしちゃよくできました」
 俺は言って、嫌がるあいつの癖っ毛をぐしゃぐしゃに撫でた。


 窓の外で灰色の雲間が晴れて一条、黄金色の夕日がやかましい俺たちの上に射し込んだ。そうだ六月のサンディエゴに雨なんか降らない。きっと輝く夏が来る。だから何もかもが大丈夫なんだと、俺はただ信じた。






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